厳しい予算面の中、完全ボランティアで指導する大原監督に全幅の信頼を寄せる本山学長は、「自主性に任せてチームを作っていく野球理論は大学生らしい。自分で考え、それをマネジメントできる能力を一人一人が身につけることで全国でも勝てるチームになりました。学生主体の野球ですので失敗することもありますが、日頃の練習や試合でも覚悟を持って、責任を持って学生たちが熱心に取り組んでいます。それがチームはもちろん、和歌山大学全体、さらには地域にとって良い影響、循環ができていると感じ、和歌山県民が応援してくれています」と、”和大野球部マネジメント” を評価する。
「真面目で素直、社会的な貢献をしていく前向きな学生が多い和大生たちの中でも、野球部は大学構内の清掃を進んでするなど、野球だけではない心のトレーニングも積んでいます。およそ400年前に始まったとされる紀州徳川家ゆかりの伝統行事 ”和歌祭” で神輿を担ぐなど、地域との交流も盛んになっています」と、野球以外の活躍も紹介してくれた。
創部100年の節目を迎える野球部に更なる期待を寄せる本山学長。「将来の和歌山大野球部のあり方、どうなっていきたいのか、どう育てていきたいのかを、和歌山大学のビジョンと重なり合う野球部としてのビジョンをしっかりと出して欲しいです」と、10年、20年後の次の世代に伝える使命に応えることも期待する本山学長。
「例えば、強豪大学と比べ華奢で身体が小さく、コンパクトな選手が多い選手たちのパフォーマンスを向上させるよう、地元の農協と連携して栄養学による食の改善やトレーニング科学を取り入れて、特徴的な仕組みを作る。特に、食事の管理や摂取のタイミング、トレーニング理論、スポーツ心理学や心のケアも含めた選手のコンディションを管理できるマネジメント力の養成、データサイエンスやAI活用など、和歌山大学の教育研究のリソースを活用した取り組みに広げていきたいですね」と、更なるブランディングに期待を寄せていた。
証言者:山本 直輝、長岡 広平(和歌山大硬式野球部)
「地元の高校から、地元の大学に進むというのは自然の流れでした。受験勉強で野球は一旦中断しましたが、高校野球から大学野球へ進むのも自然の流れでした」と話すのは、山本 直輝主務(4年・海南高)。
「父が神戸大野球部出身だったので、進学先を決める際に “近畿学生野球連盟の国公立大学で野球をやると面白い” とアドバイスを受けて和歌山大への進学を決めました。子どもの頃にプレーしていたチームで指導していた父の影響で、教える側になりたいという夢もありましたので、色々な経験を積むために和歌山大でも野球をやろうと思いました」と話す、長岡 広平選手(4年・初芝立命館高)も、入学までは “ノーサイン野球” の存在を知らずに門を叩いたと振り返る。
今では主務として、オープン戦などのスケジュール管理や渉外など野球部の事務を一手に担う山本主務だが、「2年生の11月までは選手として “ノーサイン野球” を実践するために日々練習に取り組んでいました。基本的にパターンのようなものがいくつかあって、最初はその習得に励むのですが、なぜそのパターンが存在するのか?なぜこのシーンでそのパターンをやるのか?などを一つ一つ考えていくことが大変でした」と、考える野球が身に付くまでの苦労を話してくれた。
「私は浪人生活で鈍った身体を戻すのに苦労しました(笑)。加えて入学した当初にコロナ禍で全体練習ができず、再開した翌年にもコロナ禍で休校・・・ 全体練習が満足にできない中、近くの河川敷グラウンドで3、4人一組で班を組んで2時間交替で ”和大ドリル” をひたすらやったり、オンラインミーティングで “ノーサイン野球” の理論を勉強したりと本当に苦労しましたね」と、長岡選手も懐かしそうに振り返る。