三重県の伊賀は、服部半蔵をはじめとする伊賀流忍者の発祥地であり、忍者の歴史において重要な場所です。伊賀の旅では、忍者のことをより深く知ることができる機会がたくさんあり、特に忍者好きの方にはお勧めしたいところばかりです。
忍者の専門家である三重大学の山田雄司先生や、服部家の末裔である服部吉右衛門亜樹さんにお会いする機会もありました。西洋における忍者のイメージや、忍者の実際の姿についてお話ししました。
世界における忍者のイメージ
「忍者」と聞いて何を思い浮かべますか? 黒ずくめの殺し屋や、水の上を歩いたり、別の場所に瞬間移動したりできるNARUTOのキャラクターを想像するかもしれませんね。
忍者とは
世界的に、忍者と言えば秘密の暗殺者のイメージが一般的です。しかし、実は忍者は情報収集者だったのです。忍者が有力者から様々な情報を収集して大名に伝えると、大名はそれを政治や戦の策略に利用しました。
実際、服部さんのお話によれば、家業である菓子商の姿は、忍者の姿を隠すための変装であり、絶品の餅菓子を買ってくれる有力者や富裕層から情報を収集するためのものだった可能性が高いということです。服部さんの甘味処 「深川屋(ふかわや) 陸奥(むつ)大掾(だいじょう)」は、東海道の宿場町、関宿にあります。古くは、江戸と京都を行き来する人々の主要な通り道でした。この賑やかな場所で、服部家は人々の往来を見張りながら、重要な情報を得ることができたのです。
忍者の衣服
忍者は秘密主義でしたし、秘密主義でなければならなかったので、その実態を正確に把握することは難しく、大いに想像をかきたてられる、と山田教授は言います。それは、映画や漫画、アニメにおける忍者の描かれ方を見てもわかります。忍者は様々な形でメディアに登場するため、興味やワクワクが尽きることがありません。
黒装束の忍者の典型的イメージは、歌舞伎から生まれました。場面転換の時に背景に溶け込めるよう舞台係(変装した忍者)が黒ずくめの服を着たり、役者に襲いかかる短刀を舞台係が支えたりするようになったことで、忍者のイメージが一変したのです。
しかし昔の忍者の多くは、別の方法で変装していました。秘密情報を得るためには、普通の人々に紛れ込む必要があったのです。代表的な7つの変装は、虚無僧、旅の僧侶、修験者、商人、曲芸師、猿楽師、庶民(農民や武士)でした。こうした変装により、彼らは楽に観察や情報収集ができたのです。
忍術 – 忍法
忍者文化の醍醐味は、「忍術」や「忍法」と呼ばれる忍者の技や術式です。メディアでは、忍者は自由自在に姿を消したり、水の上を歩いたり、超高速で走ったりします。忍術とは、科学の幅広い知識であり、身を隠したりサバイバルをしたりするのに役立ちます。忍者は、空や月の様子から天候を判断したり、松明や火薬を作ったり、薬を調合して薬の知識を利用したり、見つからないように静かに歩いたりすることができたのです。他にもたくさんあります。これらの技術や科学は、口づてに家族に伝えられたり、時には家の中に上手に隠した巻物を使って伝えられました。
服部さんは、自分の餅菓子を忍法、つまり忍者の食料保存術を使って作っているそうです。この餅菓子は複雑な製法で作られていて、鮮度が長期間保たれます。忍者は腐りにくい保存食を備えて任務にあたる必要があったので、鮮度を保つ製法は非常に重要だったのです。
忍者の道具
忍者は遠くにいる敵を攻撃するために、手裏剣の入った袋を持っていると思われがちですが、実際には手裏剣は数えるほどしか持っていなかったようです。その代わり、忍者は夜に城に入るための便利な道具を持っていました。これらの道具は、日常的に使われているものから作られており、もし誰かに忍者だと疑われたとしても、簡単に分解することができます。沼の堀を渡るときは、丸い泥靴で体重を分散させて渡っていました。農具から梯子や登山道具を作ったり、小さな金属片からピッキング用具を作ったりしていました。くない は、投擲用の刃物ではなく、掘る道具、家に侵入するための道具、あるいは梯子を固定するためのフックとして使われていました。重要情報を秘密裏に収集するためには、忍者の道具が欠かせませんでした。
伊賀上野に伝わる忍者のルーツ
忍者に興味のある方にとって、伊賀流忍者博物館は情報の宝庫です。だんじり会館で忍者服をレンタルし、伊賀流忍者博物館では手裏剣を投げてみたり、秘密の部屋や落とし戸のある忍者屋敷を探検したり、忍者の道具や技術を学んだりできます。
伊賀に足を運んでみれば、忍者の歴史をもっと詳しく知ることができるでしょう。