日本を舞台にした国際スポーツ大会、”ラグビーワールドカップ2019” “東京オリンピック・パラリンピック(以下、東京2020大会)” は日本のスポーツ発展だけでなく、私たちに様々なレガシーをもたらしました。
新型コロナウィルス感染症の影響から立ち直り、このレガシーを活用して社会課題の解決やよりよい未来づくりをしようと、多くのスポーツ競技が取り組みを行っています。
国内外では様々な競技で大きな国際大会が続き、スポーツがより注目されてきている2023年。
Journal-ONEは、各競技で活躍されるキーパーソンへのスペシャルインタビューを企画!
記念すべき第1回は、日本の ”お家芸” であり、世界の200を越える国々で楽しまれている柔道の総本山・講道館の第5代館長であり、トップアスリートとしてオリンピック金メダルにも輝いた上村 春樹さんにお話を伺いました。
聞き手:厚地純夫(Journal-ONE編集長・株式会社ジェイアール東海エージェンシー代表取締役社長)
東京2020大会のレガシー
-日本のスポーツを語る上では、最初に柔道のお話を伺わなければなりません。
まだ記憶に新しい東京2020大会。自国開催となった世界的なスポーツ大会における選手の皆さんの活躍は本当に素晴らしいものがありました。金メダル9個、銀メダル2個、銅メダル1個という結果はもちろんですが、全力で試合に挑む選手たちの姿には、私をはじめ多くの人たちが感動しました。
一方、新型コロナウィルス感染症が猛威を振るう未曾有の状況下において、柔道関係者の皆さんは大変なご苦労をされたと思います。
先ずは、柔道界が得た東京2020大会のレガシーはどのようなものがありましたか-
講道館の創始者である嘉納治五郎師範は、1912年のストックホルム オリンピック参加への体制を整えるために大日本体育協会を作られ “日本体育の父” と言われています。
また、1964年(昭和39年)の東京オリンピックから柔道が正式種目に採用され、その後爆発的に国内外に柔道の人気が広まっていったという経緯もありますので、柔道とオリンピックはとても深い関係にあります。
オリンピックをはじめとする様々な競技大会は、観客が多く集まって選手と一体となってエキサイティングな空間を作っていきますよね。しかし、東京2020は無観客試合での開催となり、それを実現することが出来ませんでした。柔道を始めとする日本選手団の素晴らしい活躍はありましたが、実際に会場で観戦できなかったという意味ではとても残念に思われた方も多かったのではないでしょうか。
東京2020に至るまで、オリンピックは “中止” となったことはあっても “延期” になったことはありませんでした。初めて延期となった東京2020を無事に開催し終えたあと、私は世界各国の様々な方々に「開催してくれて有り難う。」と感謝の言葉を掛けていただきました。
東京2020の開催期間中、私は選手村にずっと居たんです。(注:上村氏は選手村村長代行であったため、期間中、各国選手団の到着時に歓迎していた)本来は、各国の選手たちが試合を行い、選手村に帰ったらみんなで集まる。そこで世界中の選手たちの交流が深まって世界平和に繋がるはずだったのに、それが全く出来ませんでした。
そのような中でも各国の選手たちは、PCR検査を毎日実施したり、出来るだけ接触機会を持たぬようにしたりと、大会で決められた感染症対策をキチンとやって無事にオリンピックを開催することが出来ました。
新型コロナウィルス感染症のように、これから先も何が起こるかは誰にも分かりません。みんなで知恵を出し合い、一致団結してコロナを克服できた。無事にオリンピックを開催できたという自信が、世界中の人々に残したレガシーではないかと思います。
競技の柔道、武術の柔道
-オリンピックのような競技大会における柔道を語る際、全日本柔道連盟という組織をよく耳にします。柔道の総本山である講道館と、全日本柔道連盟の役割にはどのような違いがあるのでしょうか。-
全日本柔連連盟は日本の競技統括団体です。国内の競技・大会の運営を行い、競技性を高めていくことで柔道の普及振興を行うという役割ですね。一方、講道館は柔道による人づくりを世界において推進する教育研究機関です。国内外に柔道を正しく普及振興することと、後世に正しく柔道を伝えていくという責務を担っています。
そのため、講道館では色々な研究をしています。例えば、柔道の技の数は「100」あるのですが、この名称の統一を講道館がしました。オリンピックの会場では、全試合の決まり技の名称を講道館の専門家がつけております。
柔道はここ講道館が発祥の地ではありますが、柔道という文化はもはや世界中に認識されています。世界中の人たちが集って練習をしたり、交流したりする場が講道館であるとお考えいただければと思います。講道館から生まれた柔道が普及発展し、国際柔道連盟や、様々な国で柔道連盟や組織が作られているということです。
柔道の正式名称は “日本伝講道館柔道” と言います。簡略して “講道館柔道”、更に簡略化されて “柔道” と呼ばれています。国際柔道連盟の規約第1条には、「嘉納治五郎師範によって創設されたものを柔道と認める。」という1文が書かれてあったんです。それが今では “当たり前だから” と、柔道に対して既に世界が共通の認識を得ているという観点ができたからということで記載が省かれるようになりました。
世界の皆さんはよく「講道館はバチカン(ローマ法王及びローマ法王庁を総称したカトリック教会の総本山)に似ている。」と言われるんです。
何か決められないことがあった場合には講道館が見解を示して、それが各国の組織で共有していく流れがバチカンに似ていると言われる理由のようです。
-オリンピックなどの国際大会を通じ、“競技の柔道”に触れる機会の多い私たちですが、本来の“武道の道としての柔道”については詳しく知る機会がありません。“武術の柔道”の魅力について教えてください。-
これもフランスの方に「柔道と武道はどちらが先に “道” という言葉を付けたのか。」と聞かれたことがあります。嘉納師範が “柔道”、すなわち道を究める「術から道へ」と名前を付けられてから、武芸、武術といっていたものが “武道” に、撃剣を “剣道” にと、 “道” という言葉が使われるようになったようです。
また、“武士道” という言葉もありますが、新渡戸稲造さんの著書では「卑怯なことをするな」「礼法を守りなさい」など日本人の価値観を海外に向けて解説したものですので、武家社会の主従関係からなる “武士道” とも意味が違います。
“武士道” と “武道“ という言葉に柔道を含んで語られることがありますが、「柔道は柔道」としか言えません。剣道も合気道も武術としてひとくくりにすることは出来ないと思います。
「術から道へ」という名のあらためには、相手を倒すという単純な技術だけではなく、教育的な要素があるのです。嘉納師範の教えは「柔道は心身の力を最も有効に使用する道である。その修行は攻撃防禦の練習に由って身軆精神を鍛錬修養し、斯道の神髄を軆得する事である。そうして是に由って己を完成し世を補益するが柔道修行の究竟の目的である。」と遺訓にある通りです。
要は柔道の修行を通じて人格形成を図って世の中のためになれという道を示しているのです。「精力善用」「自他共栄」という言葉に集約されています。
国際化の先駈け、柔道の国際活動
―日本伝講道館柔道の創始者・嘉納治五郎師範は、柔道の世界的な普及発展はもちろんですが、オリンピックの日本招致や、1912年のストックホルムオリンピックに出場するために大日本体育協会(今の日本スポーツ協会)を創設されるなど、日本スポーツ全体の国際化を推進されてきました。こう言った国際活動は、講道館においても今でも変わらず積極的に行われているのでしょうか。―
そうですね。「柔道は良いものだから世界に広めよう。」と言うことで、嘉納師範は1882年(明治15年)の講道館設立から僅か7年の1889年(明治22年)には、ヨーロッパ諸国を巡って柔道の普及活動をされていました。
-確かにヨーロッパ。フランスなどはとても柔道が盛んであると言った印象があります。嘉納師範が早くから、ヨーロッパでの普及活動をされていた影響もあるのでしょうか-
世界各国の競技者登録という面から見ますと、日本よりもフランスの方が盛んであるように見えるかもしれません。日本の全日本柔道連盟の競技登録者数17.5万人に対してフランス柔道連盟の登録者数は56万人という統計もあるようですが、フランスは道場に入門する際には必ず登録しなければならないシステムになっています。
別の数字を紹介します。これまで講道館に入門した人数は、230万人ほどの人数になり、有段者は170万人ほどいます。また、登録はしていない小学生や、中学や高校の授業で柔道を学んでいる方々もおられます。
とは言え、確かに競技登録人口の多いフランスやブラジルなどは、本当に柔道が好きだという国民性はあるかもしれません。柔道発祥の地・講道館に修行に来る方も多いですね。
先日(2022年7月)来日した、プロサッカークラブのパリ・サンジェルマンFCも、講道館に来て柔道の体験をしました。あの名選手・エムバペが柔道衣を着てね。記念に私のユニフォームを作ってくれました(笑)。
―それほどに柔道が世界で支持されている理由はなんだと思われますか。―
やはり嘉納師範の考えそのもの、「スポーツは全て教育である。」という考え方にあるのかなと思います。かつて嘉納師範が、クーベルタン男爵にIOCの委員就任を要請されたときに何故引き受けたのか。
オリンピックが目指すものと、柔道が目指すものはなんら変わりがありません。オリンピックの精神(オリンピズム)は「スポーツを通して心身を向上させ、文化・国籍などさまざまな違いを乗り越え、友情、連帯感、フェアプレーの精神をもって、平和でよりよい世界の実現に貢献すること」というものです。これは柔道の精神と合致しているということで、東洋で初のIOCの委員を引き受けられた経緯があるんですね。
スポーツの本来の目的というのは、楽しむと言うこともありますが、スポーツマンシップという言葉にもあるとおり正々堂々とプレーすること。理に反したような、怪我をさせるようなことはしないといったことを学ぶ機会でもあると思います。
昔は社会生活がそういった役割を果たしていましたよね? こどもが理に反したこと “いたずら” なんかをすると、隣近所の大人が叱ってくれました。そういった社会生活が希薄になった現代では、スポーツがその役割を果たさなければならないと思いますね。
また、柔道で最初に教えるのは “受身” なんです。投げられた後、すなわち負けた時のことから教える。これは何故かというと、先ずは自分の身を守る、怪我をしないということを教えるためなんですね。こういった考え方も、世界中で柔道が支持されている理由だと思います。
―柔道発祥の地・講道館で柔道修行をすることを目的に来日する海外の方が年々増えているようですね。―
私が現役の頃は、海外からは各国の強化を目的とした選手が多く来ていました。しかし、現在では競技者だけではなく、指導者やシニア世代の愛好家の方や子ども達も多くなってきていますね。
柔道をもっと知りたい。もっと勉強したい。という方々が世界中から講道館に学びに来ています。世界的に柔道の理解が深くなってきているのかもしれません。私にとってはとっても嬉しいことです。
柔道は礼をしなくてはなりません。特に講道館では座礼という正座をして礼をするのです。練習開始と終了時に嘉納師範、指導員、そして相互に向けて全員で座礼をします。
日本人にとっては礼をすることは、尊敬や感謝などを表する当たり前のことです。しかしある日、海外から来た練習生が「宗教上、座礼はしたくない。」と言った例がありました。
それを見た私は、「柔道の礼は服従を意味するものではない。柔道は激しい稽古や試合で故意でなくとも怪我をしてしまう場合もある。だから礼をすることで、相手に対しての敬意や尊敬を表すものなのです。」と座礼をする本当の意味を説明したところ、理解して礼をしてくれるようになりました。
この例ように、私たち講道館はやはり分かり易くキチンと言葉で柔道の様々な意味を伝えていかなくてはならないんです。
世界中の価値観の違いを理解して、柔道のひとつひとつの意味を伝えていく。そのためには私もまだまだ勉強しなければなりません。この歳になっても改めて知らされることも多く、その都度職員たちと問答をして紐解いているんです。
嘉納師範は柔道の修行法として形、乱取、講義、問答という4つがあると示されております。形で技の理合いを学んで、乱取で技の応用工夫していく。講義で知識を広め、問答で考える力を養う。問答で議論をしながら新たな気付きを得ていく修行です。私と問答させられる方は迷惑だとは思いますけどね(笑)。
国内外様々な方々と問答をする機会があるのですが、最近では海外の機関から「問答の出来る指導者を派遣して欲しい。」という要望が増えています。海外の修行でも “問答” という修行が頻繁に行われるようになってきています。
皆さんは私がオリンピックチャンピオン(1976年モントリオールオリンピックの柔道無差別金メダリスト)だから、柔道のことは何でも知っているだろうと思われているかも知れません。そんなことはありません。私も日々勉強です。ですから、日々問答という修行を通じて今まで知らなかったことをひとつひとつ埋め続けています。人生いつまでも修行ですね。
誰でも学べる!講道館の普及活動
―海外に広がる柔道ですが、健康増進という観点から、私たちのようなシニアなどでも学ぶことは出来るのでしょうか-
久しく柔道から遠ざかっていた方が再開する “カムバック柔道” もありますが、全く経験の無い方も学びに来ます。学校講道館という白帯から始めるクラスがあるんです。
60歳代、70歳代で入門する方もいらっしゃいます。そして熱心に通われて黒帯を取り、涙を流す方もいるんですよ。
他にも、女性クラスもありますし、幼稚園児や小学生のクラスもあります。老若男女、国籍を問わず幅広い方が来られています。
―講道館から離れた地域での普及活動はどのようにしているのでしょうか―
海外で言えば、国際柔道連盟からの要請で「子どもの形」を共同制作しました。また、健康柔道(シニア層、安全や転び方やリハビリとしての柔道)、リズム柔道(子ども達が取り組みやすいダンス的要素を入れたもの)を普及しようという新たなプロジェクトも始まりました。言葉が通じなくても分かる指導映像を制作してYouTubeを使って配信していますが、この制作過程において実際にあった面白い話があります。
これを聞いて「なるほど。こういった、日本人では当たり前の所作も教えていく必要があるんだ!」と気付き、すぐに映像化することにしました。
その所作のあと、脱いだ草履を端に寄せる映像を加えました。「次に道場に上がる人のために、靴を端に寄せて脱ぐ場所を空けておくのです。そういったさり気ない気遣いが大事だ。」と説明を加えて、共同の映像教材として完成させ、世界に発信しました。
“言葉で指導して学ぶ” ことも大切な修行ですが、言葉に頼らず映像からも教えを伝えて学んでいただくことで、こういった日本人では当たり前で気付かないことでも漏れなく指導することが出来ると気付かされました。また、映像は拡散することで世界中の人々に共有してもらえますしね。
また、問答による修行も世界中に広がってきています。日本で問答をした内容が、遠く離れた海外で全く同じ問答をしているケースを耳にすることが増えてきました。「あれ? 日本で問答した内容と一緒のことを言っているぞ。」って(笑)。
少し前までは、海外の国際大会で選手が勝つと礼をせずに畳に寝転がって喜んでいるようなシーンや、逆に負けると大泣きしているといったシーンが見られました。
しかし、私たちがそれを見た試合会場で、「礼をする前に畳に寝るとは相手に失礼だ。」「自分を律することが出来ず感情を露わにしない精神力も修行で養う必要がある。」と問答し続けていたところ、最近では、国際柔道連盟の方々が「試合が終わった後の振る舞いが大事だ」と言うようになり、こう言ったシーンを見ることが少なくなってきました。
映像で教えを広げる、問答による口伝えで教えを広げる。実際に講道館に来ることが出来ない方々へも、着実に普及活動は進んでいると実感しています。
日本の未来を創る柔道
―地域課題の解決策としてスポーツの力を活用しようという声が高まっています。特に、少子高齢化に伴い地域スポーツの未来をどうするかが議論されています。日本が誇る柔道が地域スポーツの未来にどういった貢献ができるとお考えでしょうか―
私を含めた講道館の指導員たちは、定期的に日本全国の道場を訪れています。子どもたちの日常に触れ、普段の姿を見るためです。子ども達を指導する場面では、子ども達の純真な眼差しと柔道に打ち込む熱心さに驚かされることがあります。
オリンピック金メダリストである谷本歩実さん(2004年アテネオリンピック、2008年北京オリンピックの63kg級で金メダル)が指導をしたときに、子ども達の熱がどんどん高まっていって、最後には谷本さんに密着するように指導を聞いていたシーンは忘れられません。
また、講道館は大阪にもあります(講道館大阪国際柔道センター)。ここでは、東京まで来ることの出来ない子ども達の指導を行っています。今後は、中学校の部活動の地域移行のモデルケースとなるべく、地域とも連携して柔道に触れる機会を増やしていけるようなことも考えています。
―最後に、柔道を始めとするスポーツファンの皆さんにメッセージをお願いします。―
私はいつも “盡己竢成(おのれをつくしてなるをまつ)” という嘉納師範の言葉を使わせていただいています。自分の全精力を尽くして努力した上で、成功・成就を待つという言葉です。
力を尽くし切っていないのに失敗を運のせいにしてはいけない。幸運を望む前に、まず自分の力を尽して、失敗したとしても不運を嘆いて努力を止めずに、さらに勤勉と辛抱を怠らずに成就を待つということです。自分にも常に言い聞かせています。
嘉納治五郎師範の最期の書「精力善用」と共に記念撮影をしました。
嘉納師範は、1938年(昭和13年)にエジプトのカイロで行われたIOC総会に出席してオリンピックの東京大会誘致活動をされました。その後、各国のIOC委員を訪問した際にカナダのバンクーバーで書かれたものです。バンクーバーから氷川丸に乗り、帰国直前の5月4日に肺炎で帰らぬ人となった嘉納師範の年齢は77歳でした。
当時の77歳は相当なご高齢であったはずですが、その年齢で書いたとは思えない力強さの中に柔らかさのある素晴らしい筆です。
Journal-ONEでは講道館にご協力をいただき、来る2024年のパリオリンピック・パラリンピックに向けて、世界で愛されている柔道の魅力をシリーズで紹介していきます!