アスリートが地元掛川を紹介! 「掛川城をバックに戦国武将の気分を味わう」遠州掛川鎧屋

アスリートが地元掛川を紹介!

アルビレックス新潟の五十嵐圭選手
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バスケ界を牽引した新潟アルビレックス

2016年の “Bリーグ” 発足を機に急速な発展を遂げ、2023年に沖縄などで開催されたFIBAワールドカップにおける日本代表の躍進で、より多くのファンを取り込んだ日本の男子バスケット界。

そんな今の状況からは想像もつかないことだが、かつては競技人口が多いにもかかわらず、認知度という点ではプロ野球や、Jリーグに遠く及ばず、メディアに取り上げられることも非常に少なかった。『見るスポーツ』という概念が薄く、マイナースポーツの域を出なかったのが実情だ。

その流れが変わる端緒となったのは、2000年の日本初のプロバスケットボールクラブの誕生だった。休部となった大和證券バスケットボール部を引き継ぐ形で創設された “新潟アルビレックスBB” は、日本バスケット界に地域密着の概念を持ち込み、ホームゲームは対戦相手がその雰囲気にのまれ、圧を感じるほどの熱狂に包まれた。

再起を図る新潟アルビレックスBB-吉川哲彦撮影

その新潟が中心となって作られたプロリーグ “bjリーグ” を経て、”Bリーグ” では初年度から “B1” に所属し、3年目の2018-19シーズンには中地区優勝も達成している。しかし、その後の新潟は下降線をたどる。

2022-23シーズンはB1全体の最下位となって “B2” に降格。翌シーズンは “B2” でも最下位となり、迎えた今シーズンは “B3” に舞台を移した。B1経験のあるクラブのB3降格はリーグ史上初という、クラブの歴史に汚点を残す結果となってしまった。

救世主・五十嵐 圭が再び

その新潟に救世主が現れた。過去に日本代表でも活躍した新潟県出身の “五十嵐 圭” は、爽やかな風貌も相まって、日本バスケット界では抜群の知名度を誇る名選手。Bリーグ発足と同時に新潟の一員となり、大黒柱の1人として中地区優勝にも大きく貢献した。

その後はより高いレベルを目指して他クラブに移籍していたが、そこでの3年間はベンチを温めることが多く、悶々とした日々を過ごしていた。その五十嵐が、愛着のある故郷のクラブの窮状を見かね、自分自身も輝きを取り戻すために戻ってきたのだ。

ただ、それでチーム状況が劇的に変わるわけではない。シーズンが開幕し、第6節の時点で4勝6敗と黒星が先行。五十嵐は「遂行力が低すぎる。そもそも個々の意識が低いし、スタンダードが僕の思うレベルよりずっと下にある。だからB3まで落ちたんだなって思いましたね。なんとかしたいと思って戻ってきましたが、時間はかかると思います」と苦言を呈した。

新潟アルビレックスに復帰を果たした五十嵐圭-吉川哲彦撮影

厳しい状況で迎えた第7節の湘南ユナイテッドBC戦も、11月9日の第1戦は黒星。事態を打開するためにも、翌日の第2戦は勝利が求められた。

結果は、79-59で白星。前半の20分間で5点のリードを得ると、第3クォーターの10分間は失点を10点に抑え、リードを一気に17点まで広げる快勝だった。トータル59失点は今シーズン最少の数字。鵜澤潤ヘッドコーチ(HC)が「ディフェンスで我慢したことで最終的に勝ちきれた」と振り返ったように、堅い守りで手にした勝利だった。

シュートを放つ五十嵐圭-吉川哲彦撮影

優勝を知る指揮官も復帰

チームを率いる鵜澤HCも、五十嵐と同様に選手として地区優勝を経験した1人だ。その後、現役を退き、直近の2シーズンは女子のWリーグ、シャンソン化粧品のHCとして、チームを2シーズン連続プレーオフベスト4に導いていた。そのシャンソン化粧品から、覚悟を持って古巣に復帰してきた。

「このチームを変えると決めて戻ってきた以上は、連敗しようがどんな状況だろうが覚悟を貫き通したい。地区優勝も経験してるので、その経験から伝えられるものは伝えていきたいし、ダメなものはダメということも伝えていきたい。それは僕に課された使命。全てをチームに注ぎ込めるようにやっていきたいと思います」。

新潟アルビレックスBBを率いる鵜澤潤HC-吉川哲彦撮影

全ての最終決定権を持つHCという立場であっても、チームを変えるのはそう簡単なことではない。それは鵜澤HC自身も承知しており、「全員に同じ方向を向かせるのが僕の役割ですが、それがなかなか難しい。僕1人の情熱だけではどうにもならないこともある」と言う。

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