千葉ジェッツふなばしを特集する連載第2弾は、田代直希(No.4 / 188cm)に迫る。LaLa arena TOKYO-BAYのお膝元である船橋市で生まれ育ち、プロ入り後は琉球ゴールデンキングスへ。チームのキャプテンを務め、Bリーグ制覇も経験し、2024-25シーズンより地元へ帰ってきた。Bリーグの人気チームを渡り歩く自らを「ラッキー」と言う男のキャリアは魅力的であり、まちの子どもたちに向けて大きな夢も抱いていた。(取材日:2月5日)

田代選手に独占インタビューを実施-Journal-ONE撮影
松井秀喜が好きな小学生がバスケへ
―― どんなきっかけで、バスケットボールを始めたのですか。
田代)2つ上の兄の影響ですね。兄が小学校の部活に入ってから、土日は試合や練習に行くので、両親も付き添いで行くときに僕も一緒に連れられて試合会場や体育館に行くようになって。保護者席に座って試合を見たり、ボールで遊んだりするうちに、小学2年生ごろからバスケットボールにはまっていきました。
―― 千葉はスポーツが盛んですけど、他のスポーツには目もくれずバスケだったんでしょうか。
田代)もともと野球が好きで、特に巨人が大好きでした。松井 秀喜さんみたいになりたいと思っていて(バスケをやる前は)友だちとも野球ばかりやっていましたね!

野球好きな少年時代からいつしかバスケットボール選手にーJournal-ONE撮影
―― チームメイトの原 修太選手とは小学校時代からお互いを知っていたようですが、最初の出会いは覚えているのですか。
田代)最初の出会いは、小学6年生の市内大会の決勝だったと思います。僕らのチームは隣りの小学校と合併して人生で一番きつかったと思うぐらい、練習をしたんです。そしたらとても強くなって勝ち上がり、もう1つ違う小学校でもバスケ部が合併して勝ち上がってきたのが原ちゃんのチームでした。
―― 原選手と言えば、屈強なフィジカルが代名詞ですけど、当時から?
田代)何で中学生がいるんだろうって本気で思うぐらい、当時から体格が大きかったです(笑)。背丈は僕と同じ160cmぐらいだったのですけど。ジャンプシュートがすごい上手くて、原ちゃんはひたすら決め続けていたイメージがあります。
―― 中学校は船橋市内の前原中学校に進学されますが、やっぱり活躍されたんですか。

チームの千葉県出身の選手は田代選手と原 修太選手の二人-Journal-ONE撮影
小学6年生だったときの練習がきつすぎて、中学校ではバスケを辞めたかったんです。ソフトテニス部の体験入部に行ったぐらいですよ。でも、兄が同じ中学校にいて、同級生にも「何でバスケ部に来ないんだよ」って詰められ、気づいたら“行きます!”と返事をしてバスケ部に入部してしまいました(笑)。
ただ入ったのですが、僕は小5までやっていた皆でわいわいバスケをやって帰る生活に憧れていたので、中学校では本腰を入れてやらなかったです。市内大会でベスト8、良くてベスト4ぐらいでした。
高校時代にジェッツが誕生。でも…
―― それでも進学先の東海大浦安高校は全国大会にも出場した古豪で、県内でも実力校ですよね。進学の決め手は何だったのでしょうか。
田代)中学校の部活動を引退後に推薦の話もなく、身長も170cm無いぐらい。バスケのやる気も無かったので、家から一番近い高校に勉強で行こうと思って、夏休みに塾へ通い詰めて、人生で初めて勉強を頑張ったんです。学力も伸びて模擬試験の合格判定も良くて(笑)。それでも勉強が好きなわけでは無かったので、高校に行ったら二度と勉強したくないぞと思ったときに、大学の付属校が良いなと思ったんですよ!

4月18日の宇都宮B戦での堅いディフェンスで圧をかける田代選手-Journal-ONE撮影
ただ、選択肢のひとつに東海大浦安高校を進学先として考えはじめたとき、少し勉強の熱が冷めてしまって、やっぱりスポーツをやりたいと思ったタイミングで、“あれ、スポーツをやりながら大学付属の東海大浦安が良いぞ”という高校生らしい少し浅はかな考えが浮かんで(笑)。高3の11月頃だったので、推薦入試は終わっていたのですが“練習に参加させて下さい”と電話しました。

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[写真]=Nobuhiro Fukami