アスリートが地元掛川を紹介! 「掛川城をバックに戦国武将の気分を味わう」遠州掛川鎧屋

アスリートが地元掛川を紹介!

千葉県松戸市にある東漸寺 -Journal-ONE撮影
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幕末に活躍した徳川昭武が愛した町

徳川昭武は、単なる一大名家の藩主ではなく、文字通り「世界に羽ばたく日本男児」であった。当時の将軍・徳川慶喜の弟であった昭武は13歳のとき、日本が250年にわたる鎖国から開国に舵を切ったことを受け、1867年にフランスのパリで開催された万国博覧会に将軍の名代(=代理)としてヨーロッパに派遣されたのです。

パリ万国博覧会終了後、ヨーロッパの元首や王侯貴族に謁見した後、昭武は帰国を命じられました。水戸藩主であった長兄・慶篤が死去していたため、帰国後、昭武は水戸藩主に就任することになりました。 しかし、彼が真のリーダーシップを発揮し、将軍になる機会を得る前に、慶応4年、日本の封建制度(江戸幕府)が崩壊し、国の主権は天皇の手に戻ってしまったのです。260年以上にわたって日本を支配してきた徳川家はその権力の座から退くことになってしまいました。これにより、昭武は政治の中枢から引退し、ここ千葉県の松戸市でひっそりと暮らしていたのです。

戸定邸 -Journal-ONE撮影

松戸市には、徳川昭武が隠居の日々を過ごした邸宅と庭園が今もなお残っており、人気の観光スポットとなっています。戸定邸や隣接する戸定歴史館には、戸定邸で実際に使っていた多くの私物や、貴重な資料、数多くの写真などが残されており、彼の趣味や当時の洗練されたライフスタイルを知ることができるのです。

その一方、徳川昭武の食生活はどのようなものであったのでしょうか?

昭武が好んで食べていたものとは

その答えは、松戸市にある、人気の料亭「しの田(しのだ)」にあります。ここでは、徳川昭武が好んで食べた “昭武の味” を楽しむことができるのです。松戸市田中新田で半世紀以上営業している「しの田」では、昼食時に昭武公が好んだであろう味と料理をお昼のコースで提供しています。

松戸市の人気料亭「しのだ」 -Journal-ONE撮影

一般的な和食のランチは、漆塗りの木箱に入って出てきますが、「しの田」では、徳川昭武が陶芸に興味を持ったことにちなんで、鮮やかな黄色の陶器の蓋付き重箱という特別な御膳を使って盛り付けられているのです。

「しのだ」で楽しめる“昭武の味” -Journal-ONE撮影

この陶器の中には、伝統的な調理法で料理された地元産の野菜、新鮮な刺身、魚介類、ローストビーフなどが盛り付けられています。そして、別の器には「しの田」特性で、とても繊細な味のする寄せ豆腐が付け添えられてきます。

「しのだ」の繊細な味のする寄せ豆腐 -Journal-ONE撮影 

このような伝統的な日本料理に加え、幕末から明治維新にかけては食べる習慣が広まっていなかった豚を用いた料理・しゃぶしゃぶも一緒に提供されるのです。兄である慶喜公が豚肉を好んで食したという史実が残されていることから、昭武公も食していたのではないかという想像をかき立てられる料理なのです。

「しのだ」豚のしゃぶしゃぶ -Journal-ONE撮影

薄く切った豚肉の上に細かく刻んだネギをのせたお皿と、薄味の出汁が入った紙皿を上に乗せた小さな金属製のコンロ台が並びます。豚は生のまま提供され、固形燃料に火を付けて熱せられた紙皿の中の出汁が温まったところに、豚肉をはじめとする食材を入れて食べるのです。

豚肉とネギが煮えるのを待つ間は、サクサクのエビと野菜の天ぷらに箸を伸ばします。陶器皿に入った刺身や、天ぷらを食べ終わる頃には、豚肉がちょうど良い具合に出汁と絡み合い、添えられた柑橘系のポン酢しょうゆにつけて楽しむことが出来るのです。

「しのだ」の天ぷら -Journal-ONE撮影

そして、最後にデザートとして出てくるのは、シンプルでおいしいアイスクリーム。

アイスクリームは、昭武公がフランスで開催されたパリ万国博覧会に赴く船中で、初めて食された記録があります。それ以来、アイスクリームが大好物となり、お手製のレシピや作り方を自ら書き記しているほどです。

昭武公の大好物アイスクリーム -Journal-ONE撮影

徳川昭武公が好んだものを知ることが出来た昼食。この後は、徳川家ゆかりのお寺があると聞き、腹ごなしを兼ねてお参りしてみよう。

徳川ゆかりの社寺の名前は、東漸寺。東漸寺は、松戸市がある関東地方で最も歴史的・文化的な価値のある宝物があるのです。

東漸寺への参拝

東漸寺は、千葉県松戸市を通過する旧水戸街道の小金宿沿いにある浄土宗の仏教寺院である。もともとは1481年に信濃国の僧、経譽愚底上人が現在地から北東に1kmほど離れた近くの根木内城内に創建したものとのこと。

それから約60年後の1550年代前半から半ばにかけてこの地に移され、江戸時代初期には徳川家康の定めた関東十八檀林のひとつとされた由緒ある寺院なのです。

東漸寺 -Journal-ONE撮影

1603年、徳川家康が江戸幕府を開いたとき、当寺の7代目住職である了学上人は、家康の指導教官として招かれたほど、東漸寺とその住職は名の知れた存在でした。その後、二代将軍・徳川秀忠の葬儀では、了学上人が葬儀の大導師をつとめました。東漸寺は江戸時代を通じて幕府の庇護を受け、特に徳川家康公を祀る東照宮を擁し、その威光は絶大だったのです。

この寺の貴重な宝物のひとつが、特別な時にしか公開されない徳川家康の肖像画です。江戸時代には、肖像画そのものが神像として境内の東照宮にお祀りしていました。

東漸寺は、かつてその時代は今よりはるかに広い境内を有していました。本堂、書院、観音堂、経蔵、鐘楼、開山堂、正定院、東照宮、社殿、大門、その他修行僧の宿舎8棟など20余りの堂宇があり、1722年の大改修を経て最盛期には35の末寺を有し、全国にその名を馳せていたのです。

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