アスリートが地元掛川を紹介! 「掛川城をバックに戦国武将の気分を味わう」遠州掛川鎧屋

アスリートが地元掛川を紹介!

徳川昭武が愛した邸宅 戸定邸 -Journal-ONE撮影
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戸定邸

千葉県松戸市は都心から北東22kmに位置し、現在は都内で働く人たちのベッドタウンとして知られています。

多くの希有な人物が輩出された幕末から明治維新、その中でも極めて魅力的な人物の一人がここ松戸市に住んでいたことを知っていますか?

歴史に大きく名を残すことなく、世が世であれば江戸幕府の将軍になることができた、あるいはなるはずだった人物がいたのです。その人物の名は徳川昭武公。松戸市には彼の邸宅(国指定重要文化財)とその庭園(国指定名勝)が残っており、ここは千葉県内に4つしかない国の名勝のひとつに指定されているのです。

徳川昭武が愛した邸宅 戸定邸 -Journal-ONE撮影

1600年代初頭から250年以上もの間、日本は外国との交流を殆ど行わない “鎖国” を続けてきました。日本が国際交流を凍結しているこの間、世界の様々な技術水準が上がっていたことに初めて気付いた幕末期。武士たちはその事実にショックを受けました。

幕府は、先進的な軍事力を持つ西洋諸国からの来訪者たちに対抗できず、尊敬と威信、そして権力までを失うことになりました。そして、幕府の権威は失墜し、日本は封建時代の終焉を迎え、新たな政権の下、世界に追いつくために諸外国との競争を始める時代に突入するのです。

徳川昭武が愛した邸宅 戸定邸 -Journal-ONE撮影

アメリカ軍艦(黒船)が来航した1853年、水戸藩主・徳川斉昭のもとに一人の子供が誕生します。斉昭の18男であり、15代将軍・徳川慶喜の弟、徳川昭武公その人です。

1866年末、当時13歳になった徳川昭武公は、1867年のパリ万国博覧会に向け訪欧使節団を率いてフランスに渡ることになりました。万国博覧会は大成功を収め、日本の伝統的な美術工芸品や優れた製造技術が初めて世界に展示されたのです。

徳川昭武が愛した邸宅 戸定邸 -Journal-ONE撮影

また、欧州歴訪の目的には、ナポレオン3世、ウィリアム3世、ヴィクトリア女王、エマニュエル2世、レオポルド2世など、ヨーロッパの元首や王族に会うという重要な使命も帯びていました。将来、将軍になる可能性のある若者・徳川昭武にとって、ヨーロッパの国家元首や王族と接触することは、とても重要な役目であると考えられていました。

しかし、1868年1月27日、幕府派と朝廷派による戊辰戦争 が勃発し、江戸幕府が崩壊を始めます。明治天皇に日本の政権が返還されたことで、260年以上にわたって支配してきた徳川政権も消滅したのです。

1868年6月には、天皇の名において昭武公に帰国命令が届き、これを重く受け止めた昭武公一行は帰国 を決定しました。昭武公が進むであろうと思われた将軍への道のりは、風に煽られたロウソクの火のように消え去ってしまったのです。そんな昭武が晩年、ここ松戸に隠棲するため、今ここに現存している自宅と庭園を造営したという訳です。

徳川昭武が愛した邸宅 戸定邸 -Journal-ONE撮影

徳川昭武が愛した邸宅 戸定邸 -Journal-ONE撮影

この邸宅は、特別な階級を持った人物の隠居所の中でも、とりわけ素晴らしい設えとなっています。このような工夫を凝らした武家建築は、関東地方では珍しく、幕末から明治維新に掛けて建てられた多くの素晴らしい建築物は、いまの時代までの間に多くが失われてしまっています。火災や、関東大戦災、第二次世界大戦での空襲、また戦後の近代化によって、その多くが失われてしまったのです。

工夫を凝らした武家建築 -Journal-ONE撮影

西洋、とりわけヨーロッパのような芝生と植栽で特異な景観を施した庭園は、戸定邸独自のものであり、ヨーロッパの庭園にヒントを得た手入れの行き届いた広い芝生は、日本で初期のものでした。かつては松戸や江戸川、東京の平野部、遠く富士山まで見渡せた70,000平方メートルの広大な丘を含んだ敷地には、伝統的な門や庭園、建築物があちこちに配置されているのです。

徳川昭武が愛した邸宅 戸定邸 -Journal-ONE撮影

昭武公とその家族が、素晴らしい眺望と日本建築と西洋文化の融和を楽しんだことが分かる優雅な邸宅は、廊下でつながった9棟の建物から構成されています。部屋数は23室にもおよびます。それらの部屋のほとんどは、伝統的な障子や木目を活かした柱などを贅沢に使い、直線的デザインの木製の部材 に囲まれた畳敷きの部屋になっています。各部屋は外の庭に面しているか、日本の伝統的な美意識で心地よく配置された小さな中庭に面しています。

部屋のほとんどは、伝統的な障子や木目を残した柱などを贅沢に使っている -Journal-ONE撮影

注目すべきは、各部屋を仕切る天井の下の欄間です。徳川家の家紋である葵の葉、鳥、竹、コウモリ、蝶、花などが彫られ、それぞれが異なる物語を語っているところです。

徳川昭武が愛した邸宅 戸定邸 -Journal-ONE撮影

また、部屋の長押に見られる釘隠しなどにも徳川家の象徴 “葵の紋” が描かれています。ゲストルームを囲む外廊下には、長さ約12メートルもの丸太が2本使われている造りも素晴らしいものです。このような最上級の材を建築に取り入れることができるのは、余程の富と財力を持った人物でなければできないことなのです。

徳川昭武が愛した邸宅 戸定邸 -Journal-ONE撮影

戸定歴史館

昭武公は、他の裕福な徳川家や権力者と同様、写真愛好家で、1,000枚以上の写真を撮影し、500枚以上のプリント(焼き付けた印画紙) が残されています。戸定邸の庭園は、時代を回顧する貴重な記録です。昭武公が撮影したとされる戸定邸庭園の数多の写真は、庭園の再現や修復に役立てられています。この絵に描いたような美しい庭園は、地元のカップルやアマチュアカメラマンに人気が高い撮影スポットで、結婚記念の写真を撮る人も多くいるとのこと。

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